コラム

Column

院長の高校時代からの精神遍歴(禅瞑想に関して)

①[悟りを求めて]

高校一年までは野球少年でした。

「根性」では誰にも負けてはならない、という意気込みで没頭していましたが、

自分を振り返る事ができる年齢になったからでしょうか、スポーツの競争的な面に次第に疑問を抱くようになっていきました。

 

勝ち負けの世界より他に何か大切なものがあるのではないか、と内面世界の価値に心が向くようになっていきました。

野球も辞め、学校の勉強にも意味を見い出せず、劣等生として生ける屍のようになり、地元の海を飽かず眺め、人生論の本と、幾つかの神経症症状も併発していましたので、神経症の治療法である森田療法の本ばかり読み漁っていました。

 

高校を卒業後すぐに100日間の入院森田療法を受け、自分の神経症的な悩みは一段落したけれど、

世の中を見回すと、戦争に行って戦死したり、赤ちゃんが病気で亡くなったり、この世界にはいっぱい苦悩が溢れている。

その一方では、妾を囲って欲望三昧で百歳まで生きる老人もいる。

これは不公平ではないか、理不尽なこの世の現実は何なんだろう?という疑問が湧いてきました。

 

このことを解決しないと生きていけないような気持ちが心を覆うようになりました。

 

「人生とは何か」という疑問なのですが、それを考えていると、この宇宙が存在しているように感じているけど本当はどうか分からない、けど存在している感じはするので、

その存在の意味は何なのか、という疑問に集約されてきました。

 

和田重正先生と接していたので、その答えはわかっていました。「人間のアタマではわからない!」ということなのですが、

 

先生に自分のその気持ちを尋ねると、「人が出した答えでなく、自分で行き着くとこまで行かないと納得できないから、取り組んでみなさい。付き合ってあげるから。」とのことでした。

そして毎日のように日記で人生についての疑問を先生に質問する日々が続きました。

 

「悟り」を得ればすべての苦悩から開放される、と思って悟りを求めて禅瞑想や一心寮(在野の教育者、和田重正氏主宰 神奈川県丹沢山中にあった生活道場)での畑作業、薪作り、草刈り、土のう運びなど、日常の作務に精を尽くす日々でもありました。

 

 

②[自力の果て]

ですが、気づきが全く来ない・・・。

「悟り」のことですから、無心になる必要がある。

だが無心で瞑想をすることが出来ない。悟りを求めている限り無心ではないのですから。

 

悟りを得よう、得たい、という自分の計らいの気持ちが無くならない。

そして、この世界に関する疑問も次から次に湧いてきて尽きない。

こんな状態で年月が長く過ぎていきました。

 

人間、10年ぐらい一生懸命にやっていると、それに行き詰まるようにできているのか、

その頃はもうくたびれ果てるというのか、「悟り」も忘れているような状態になっていました。

和田重正先生に対しても、ある朝、「もう質問はいいです!」という言葉が出て寝床から起きました。

その日の午後に先生が亡くなられた、という不思議な偶然の一致(共時的現象、シンクロ二シティ)と思われる現象もありました。

 

そんなとき、ある気づきがありました。

「今までは小さな洗面器に自分の顔を押し付けていたようなものだったんだな。」

と自分の自我の中での苦悩に藻掻いているだけだった、とわかりました。

洗面器から顔を上げれた体験だったかと思います。

 

ここで若い頃からの苦悩からやっと息を吹き返したというか、これからも生きていける、という気持ちになれた一つの体験でした。

 

 

③[気づき]

その後、地元の大学院での心理学の修士論文執筆に際して、

「個を超える」というテーマでの取り組みで、悟りに関する書籍を集中的に読み込んでいました。

 

その中には「悟りを求めていたら悟りは得られない。」

という重要事項に再び出会い、意識に留めている状態でした。

また、論文には自分の実体験からの考察もあると良いと思い、

禅瞑想も普段の二倍の時間をかけていました。

 

 

そんな時の或る夜、睡眠中にもう一つの大きな気づきの体験がやってきました。

眠っているときにドンッと気づきが向こうからやって来た、というような感じでした。

意識状態が薄れて、意識の奥の方から「ドンッ!」というような感覚。

 

普段は目で見て、これは茶碗だ、箸だ、とかいう“形”として、

且つ、これはピンクだ、緑だとか“色”として、

形や色として外界の現象を認識しています。

 

この時はその働きが薄れて、形や色として現象界をとらえる以前の、

色にも形にもならない、混沌とした宇宙のエネルギーの本体のようなものを感じたようでした。

 

 

そこでわかったことが、

宇宙はとてつもなく広い、と思われていますが、

宇宙は広くも狭くもない。」ということです。

 

また、地球が出来てからも約46億年経っているとか言われますが、

時間もあるとか無いとかではない。」ということ。

 

そして、形や色という現象をとらえるのでなく、

宇宙の本体のようなものから観れば、

いつでもその本体そのものなのであるから、

生も死もない。」ということがわかりました。

つまり、個人の自我の立場を手放した認識ということではないかと思います。

 

 

 

④[開放]

この気づきによって、誰が頭がいいとか

悪いとか、その他あらゆる相対感覚から開放されて凄く楽になりました。

 

時間の長短の感覚の束縛から解き放たれることによって、

1歳で亡くなった赤ちゃんと、百歳近くまで生きた欲ボケ老人とも、差がないのだと納得しました。

 

そして、この気づきの時、感覚的な欲望(快感)からも距離を置けている自分になっていました。

そこで実感したのは(知識としては知っていましたが)、快感など感覚的な欲望は個体の保存と種の存続が目論まれて生物に備えられているのだ。

その仕組みに引きずられて、欲望をどれだけ満たしたか、が幸せの尺度のようになっているが、

快感からも離れてみると、それが幸せの尺度ではないことを思いました。

 

1歳で楽しい思いもあまりせず亡くなる赤ちゃん、妾を囲んで美味いものを食って死んでいく老人、差はないと納得しました。

 

また、「死」については、個人は無くなっても宇宙の生命力の中にずっと存続するわけだから、死への恐怖に対する考え方も変わります。

 

もし何かの重病に罹ったとして、助かる努力は懸命にしますが、それでも回復する見込みがないときには、「バイバイ、ちょっと早くお先に行っとくよ。」と周りに言えるような気持ちになりました。

 

 

 

⑤[平和な心]

この気づきの時、自分が平和的な心の態度になっていました。

人から何か言われて、それに言い返してやろうとかではなく、融和的に反応したい心持ちです。

 

当時は地元の砂浜で大量のアサリが採れた年でした。日に2,3百個採っていて、余ります。

母が余りを近所のパーマ屋に持っていこうか、と提案しました。パーマ屋のおばさん、悪口ばかり言う人物で大嫌いでしたが、その時は不思議に「いいよ。」と言ってしまっていました。

 

個人の自我にまつわる恨みや怨念のようなものも、吹っ飛んでいる状態でした。

 

「ああ、人間には本来、平和的な心が奥に宿っているんだな、それがエゴイズムによって曇らさているだけなんだ。」

平和な心を外から身につけるのではなく、余計なエゴが薄らいでいくことが平和には肝要なのだと分かった次第です。

 

 

残念ながらこの状態は2週間で元に戻ってしまいました^^;

そこが凡人の儚さです。和田先生はこの状態が一生続いた方だったのでしょう。天才です。

凡人は謂わば「ノーマル」、天才は「アブノーマル」でもあります。

普通で仕方ありません。

以前だったら、能力の足りない自分に気持ちが落ちていたでしょうが、比較のない精神状態に気づけたおかげで、「悟り」の深さにも差は重要ではないのだと思うようになりました。「悟り」を求めようと歩んでいること自体で平等だということです。

 

普段、禅瞑想を心がけてあのような境地を実感できるように励んではいます。脳内のエゴの働きが薄らぐ方向です。

 

 

 

⑥[宇宙の意味]

あとは、宇宙の存在の意味についてですが、

 

意味はわからない、ということです。

人間の知的合理性を満足させるような答えはない、と思います。

 

人は物事を「こうこう、こう、だからこうなんだ。」という具合に論理的、合理的に理解しようとする性質があります。

宇宙の長い歴史の中で、人間の脳が出来たのはごく最近、そんな半端な偏りのある脳の性質を満足させるような成り立ちで宇宙は出来ていない、と思うようになりました。

 

理論物理学、天文学等から宇宙の存在の様子は今後も解明されていくでしょうが、その存在の“意味”は出てこないでしょう。

 

人間の知的合理性という働きがとってもチッポケなものだと思うからです。

人々は、そのアタマの知的合理性の範囲にがんじがらめになって苦しんでいるのだと思います。

人間の外の宇宙を見るのでなく、内側の”脳”の方を調べることによって、ココら辺のことは解明されていくのではと思います。

 

こう思えるようになったのは、和田先生が付き合って下さったからだと思います。

10年くらい考えてると、ああ、わからないんだな。という諦めが段々とついてきます。

自分のアタマの脳力を自分のアタマが見限る、ということでしょうか。

 

『もう一つの人間観』(和田重正著 地湧社)の巻末の「ピン公の話」が今では自分なりにですが、よくわかる気がします。

 

不条理な世界を生きていて、「何故こんなことがあるのだろう、苦しい世界にいて、意味は何なのだろう。」と迷う人は多いと思いますが、

「わからないんだ。」というところに行き着くとスッキリします。

わからないまま、わかるのではないか、と答えを追い求めて迷っているより、随分と気持ちが楽です。

 

以上です。

 

※上記は私のごく個人的な人生に関する感想です。

人それぞれに、色々な人生観があってよいと思います。

私の体験が合ってるとか合っていないとか、ということではなく、

自分はこの人生観で納得できた、というだけのことですので。

その点、ご了承下さい。

 

 

 

 

 

冷えの反射

「冷えの反射」という身体の反応があります。身体のどこかの部分に冷えを感じると、手足などの末端の毛細血管に行く血流を少なくし、体幹に血液を集めようとする身体反応です。

 

この反応はどこで判断されるかというと、「脳」の部分です。

 

冷えでお困りの方は、手足やお腹を温めたりすることもよろしいですが、より根本的にはこの「冷えの反射」という、脳が判断する反応を解除する必要があります。

 

そのために一番大切なことは、首の上部、頭のつけ根の部分のコリを柔らげて、温かい血流を脳に良く循環させるようにすることです。
この部分は、自律神経の緊張も表れる場所ですので、たいていの方が神経的なストレスも加わり、強度のコリを持っていらっしゃいます。

 

ご自分で行える方法は、

 

硬式テニスボールを寝床や居間に置いておいて、就寝前やテレビを見ている時など、仰向けで寝転がって手の平にボールを掴んで、右側の頭のつけ根は右側から当てる、左側は左手で当てる、という具合にしてコリをほぐす方法があります。

 

これは圧定という方法で、強い力を入れる必要はありません。ジワーッとしばらく(40秒~1分間)ボールを動かさずにコリの場所に当てていますと、筋肉が緩まってきます。
何故硬式テニスボールかといいますと、硬さが丁度良いからです。軟式ボールでは柔らか過ぎますし、ゴルフボールなどは、硬くて刺激的かもしれませんが、筋肉を痛め、あとで却ってコリを増してしまい、いつもマッサージしないと居られない状態になる場合がありますので。

 

この首の上部、頭のつけ根の筋肉のコリが柔らいで来ますと、それと同時にその場で、手足が暖かくなってくる反応を示すお客様もいらっしゃいます。

 

「冷えの反射」は、体のどこか一部でも冷えをキャッチしますと反応が起こってしまいます。

 

冬季の外出時の冷たい空気からは全身防寒され、夏場のオフィスでのエアコンの冷気などにはスカーフを巻いてカーディガンをはおってソックスをはく等、体の一部でも冷気にさらさないという点にもご注意ください。

 

他には、骨盤の歪みを矯正し、腹部の大動脈、大静脈の硬化部分をゆるめて、脚への血流循環を改善する。

 

身体を冷やす作用のある陰性の食物(白砂糖、南国の果物、コーヒー、ナスは極陰です、etc)の摂り過ぎを避け、陽性の食物(根菜類、果物でもリンゴは大丈夫です、生姜etc)を口にされる。

 

また時折ストレス発散のための気分転換を図られたり等々。

 

頭のつけ根のコリをほぐす「冷えの反射」の解除、と共に取り組まれてみてはと思います。

心のエネルギー

静かなそよ風
心地よい音楽
心安らぐ雰囲気

 

いいですよね。
そんな中で穏やかに生活したいです。

 

ただ、自然界も時に火山のマグマが噴火したり、
台風が来たり

 

激しいエネルギーもあっての地球ですから、
人間の心にもそんなエネルギーが備わっているんでしょうね。

 

いろいろなお祭り風習があります。
普段しない面白いこと(顔に墨を塗る、トマトのぶつけ合い、裸祭他)をしたり、
火を炊いたり大木に乗って滑り降りたりなど激しいことをしたり、

 

たまにそうして、心の奥底のエネルギーを安全な枠の中で発散する、という人間の知恵なのでは、と思います。

 

普段は穏やか安らぎの中で生活したいと思います。

 

ただ激しいエネルギーも自分の外のこととして排除すると、
激しさが深層の無意識の層に追いやられて「影(シャドー)」になって、逆に心苦しくなる場合があると思います。

 

この地球で発生して進化してきた人間の心は、地球環境とリンクしていると思いますから、
地球の穏やかなありがたい自然環境を感受しながら、
激しい力強いエネルギーという面もたまに意識しておくことは、

 

心のバランスを保つために良いと思います。

自分の無意識の中にある「影」の存在

心理学の専門用語に「投影」という言葉があります。自分にとって受け入れ難い心の傾向が抑圧された場合、それが心の「影」となって無意識の中に潜みます。

 

そして自分以外の人が、その受け入れ難い心の傾向を持っていることを発見したとき、その人に対して強い拒否感が起きることがあります。大きく心乱されるのです。

 

自分の心の「影」の部分を、自分の中に自覚せず、相手の心の中に存在するものとして、いわば相手に「投げ」入れた状態として感じること、と言ってよいかもしれません。

 

一例として、あるとき自分が我の張った心の狭い人間だと痛感し、「このままではいけない!なんとか寛容な心を持った人間になろう。」と決心して、努力していったとします。

 

そんな時、自分の周りに心の狭量な人が現れたりすると、「こんな大人気ない人が世の中にいるなんて信じられない!」といった反発を感じます。そして、その人物と接っするときや、その人物を思い出したりするだけでも、嫌な感情に支配され、心穏やかでない心理状態になることがあります。

 

このことは、かつて自分の狭量さを過度に是正しようとした為、その心の傾向が無意識の中へ抑圧され、自分では意識できない「影」となっているために起こった現象です。自分の心の中の「影」が相手を通して思い出され、無意識が刺激されて自身の感情が揺さぶられているのです。

 

箱庭療法の解釈の元になっている「ユング心理学」では、人間の無意識の中に、人類の全ての経験や心の傾向が備わっていると考えています。
ひとりの人の心には、聖母マリアや仏様のような慈愛的な心も存在すると同時に、あらゆる卑属的な感情や欲望も存在しています。

 

上の例の場合、自分の中にある狭量な心の傾向を、☆人間なら誰にでもあるものだとして、自身に対し、少し自分を許す試みをしてあげましょう☆
そして、自分の心の傾向はあるままに、行動は寛容な態度を心がけていくのです。それに伴って自然に感情も洗練されて行くようになるでしょう。

 

もし、苦手で嫌いな人が出現したときは、その人の心の傾向は、自分の心の奥底にも本来備わっているものだということを、しばし立ち止まって振り返ってみられては如何でしょうか。
それが、人間の意識・無意識を含めた心全体に思いを馳せ、自分の心の色々な傾向を受け入れられるようになっていくキッカケになれば、と思います。

 

人は生まれてからこのかた、幾つもの「許していない自分」を積み重ねてきている、と言ってもいいかもしれませんね・・。

 

今回は、影の投影という考え方を足場に、相手に対して抱く好き嫌いの感情を手がかりにして、善悪、美醜、聖俗すべてを含んだ心の全体性を味わい、自分自身を許していく、自分の存在を少しずつでも受け入れ好きになって行く、ひとつの道を提案させて頂きました。

心理の帯域と癒し

一言で『心理』といっても、幅の広いものですね。

 

今ここでの感じや、感覚、考えることなどを表す「意識」の領域。
意識の奥にある、普段はあまり気づいていない、その人の過去から現在までの体験などの領域である、個人的な「無意識」
個人的な無意識の底にある、太古からの民族や人類すべての体験などを共有しているとされる「普遍的無意識」の領域。
そのまた次には、禅などで直覚的に体感するような、「意識」も「無意識」も「普遍的無意識」をも超えた、絶対無の「未意識」とも呼べるような領域。

 

人は、上記の領域のどこかか、いくつかの領域に関する引っかかりや悩み、疑問などを抱えて生き、それらに対する心の落ち着きどころ-“癒し”-を、それぞれ縁あった生き道で求めているように思えます。

 

縁あった生き道とは、心理セラピーの場に限らず、その人の人生で出会う人々、出来事、人生全体の体験の中から得られていくすべてを含んだものでしょう。
また心理セラピーにしても、今の世の中にはすぐには把握しきれない程、数多くのものが存在しています。

 

心理カウンセリング、セラピー的な例ですと、
① その人の「意識」を中心に語って頂き、その人が肯定的に受け入れられる体験から、この自分でいいんだ、という安堵や、眠っていた建設的な心の働きを回復される場合。

 

② 個人的な「無意識」にある過去の親子関係や、傷ついた体験などに気づかれたり、過去の体験を補い、やり直しをされながら癒されていく場合。

 

「普遍的無意識」にある、女性像、男性像、母なるもの、知恵を備えた人物、動物その他のイメージを、夢分析や箱庭を介してやり取りし、心のバランスや人格が発展していかれる場合。
(例えば、心のバランスで言いますと、ウツ的な人は、エネルギーが無くなるのではなく、心の方にエネルギーを使っておられて、現実の方にそれが行っていない状態とも言えます。そして箱庭療法でも、心の方を意味する片側にしかミニチュアを置かれないことがあります。ですが回を重ねると段々、人形が現実を意味する場所に向かって歩き出す作品を無意識的に作られたり、また、意識の上では、八方ふさがりの大変おつらい心理状況でありながら、箱庭の中に、一片の‘希望’を意味するようなイメージのオヴジェを、ご本人も気づかずに置かれていたりといったことがあります。このように深い無意識の心が、イメージを通してバランスをとって、より円熟した人格に向かって働いていることに気づかされることが少なくありません。)

 

④ 絶対無の「未意識」では、人間存在に対する疑問(例えば、人生早くに事故で亡くなる善良な人がいる中、百歳まで生きて、悪どく、あらゆる欲望も味わいつくした人物もいる不条理をどう理解するか、等々)に対して、「こうこうである、であるからこうなんだ。」という様な形での、人間の小さなアタマを納得させる答えではなく、人間の論理的思考を超えた、感覚的満足をも超えた、あらゆる人間的比較を超えた、“無”ともいえるような境涯を感得して、根本的な落ち着きを得る場合。この領域は、言葉を越えた直覚的な体験ですので、セラピストや覚者の持つ雰囲気がボディワークなどを通して伝わるのが主になるでしょうし、セラピーの場だけでなく、その人の人生への取り組み自体も感得への大きな要素を占めるでしょう。

 

『心理』の領域はまだまだ解明されていない仮説段階のことも多いのですが、色々な説を柔軟に受け入れながらも妄信せず、現実感覚もキチンと保ちながら、広大な心理の領域に接して、癒され、人生をより豊かに、人間性の発展に向かって、ご自分なりのペースで歩んでいかれたら、と思います。私も歩み続けて参りたいと思っています。

アロマオイルトリートメント(ディープティシューマッサージ、ロミロミほか)

気持ちがいい究極、メディテーション(瞑想状態)の極みに身心が達している時、
フッと「あっそうか。」「そうだったのか。」
とご自分が抱えていた人生の問題に
開かれた視点が直感的に得られる場合もあります。

当店の「気持ちいい」マッサージ整体の最終目標、到達目標はココにあります。

人生観の次元が変化する、とでも表わされる心の成長です。

心の視野が拡がると、今までより楽に生きることが出来るようになります。

人生に気づくことによって、さらに楽に、人生を味わえるようにお互いがなっていきたい、
との思いで日々施術を行わさせて頂いています。

筋膜ほぐし

肩首コリに、話題の『筋膜ほぐし』を施しますと、施術の最初の短時間で、
肩首の動きが非常に軽くなります。

左右、回旋、前後の動きがラクになり、皆さん驚かれる場合が多いです。

動きが良くなるとコリにくい身体になり、
良い状態がその場限りでなく、長続きします。

筋膜に感覚細胞が集まっていますから、
筋膜ほぐし中はたいへん気持ちいい感じ効いた感じを味わって頂けます。

コリの芯が奥の深いところにあっても、
指先でそこの筋膜までシッカリ届くように施術いたします。

筋膜が筋肉を被っていますから、筋膜ほぐしでそのロックをユルメて外すと、
筋肉を痛めず安全にホグレます。

筋膜は身体全体を袋のように被っています。
全身でつながっていますから、脚の筋膜のやズレやツッパリを治すと
腰痛が改善したり胃腸の働きが良くなったり
また、手の平をユルメると肩首コリや腰がすっかりラクになったりということも起こります。

またお顔や頭蓋骨周りの筋膜のズレやネジレを調整して、正しい位置に戻すと、
目がパッチリしたり、口角が上がって良い表情になったり
美容的にも効果が出ます。


筋膜はカラダ全身を被っています。

身体を袋の様に包んでいる組織です。

コリに対して筋膜をユルメてロックを外すと、
ガシッと筋膜によってロックされていた筋肉が柔らかさを取り戻します。

コリが良くなるのと同時に、筋肉の基礎代謝も上がりますから、
脂肪燃焼率もアップしてダイエット痩身にも有効です。

コリをホグそうとしたら、痩身にも効いた、逆に、痩身のつもりでケアを受けたら、
ついでにコリも良くなった、ということも起こります。

「健康」=「美容」
健康と美容は別々に求めるものではなく、同時並行しているものです。


筋膜のズレから関節も引っ張られて歪みが生じている場合もありますから、
筋膜ほぐしによってそのズレを解消すると、関節も元の正しい位置に戻ります。

身体の固さも筋肉自体が硬いのではなく、
筋膜の硬くなった箇所を伸ばしてユルメると、
瞬時に驚くほど身体の柔軟性が回復して、それが施術の後も長持ちします。

痛覚は筋肉自体にはなく、筋膜に痛覚の細胞がある、という説があり、
コリをもみほぐしている時のイタ気持ちいい感覚は、筋膜ほぐしでシッカリ感じられます。

むしろ闇雲に筋肉をゴシゴシ押すより、私の施術はピンポイントで的確にコリをとらえますから、
「効いた感じ」「気持ちよさ」がお好きな方に、
単なるもみほぐしだけの施術よりご満足頂いています。

「気持ちよさ」=「施術効果」
とても気持ち良くて、身体の症状も良くなることが同時並行の施術です。


この頃、テレビ等メディアで『筋膜』が着目されています。

コリがよく改善したりダイエット効果があったという内容で、
筋膜は今まで全然注目されずにきたのですが、
新たに脚光をあびてきてるという意味で、

「シンデレラがスーパースターになった」
と言われてるとのこと。

解剖学的な研究が進んできて、
すごい勢いで科学的根拠が出されている。

新しく筋膜に着目したいろんな方法が出てきていて
治療も変わっていく、とのこと。

◎当店では以前から『筋膜ほぐし』を導入していて、すでに効果を上げて参りました。

『いづみ』は様々な技術を研究し続けています。

日々進歩を目指していますから、どうぞご体感頂けたらと思っています。


筋膜の最新研究に関するドイツの番組も紹介されていました。

 

筋膜が人体に与えている影響:姿勢の維持、コリ、痛み、東洋医学のツボとの一致、
伝統的な様々な治療法も実は筋膜に作用して改善していた等々、
今まで見過ごされてきた筋膜の重要な役割が解説されていました。

電話0859-45-2165 9:00~22:00最終ご入店で施術可能です。お電話は営業時間外でもつながります。完全予約制

ページの先頭へ